ラフカディオ・ハーン

朝日新聞社のアサヒ相談室シリーズの『旅行』(1953)に新婚旅行の項目がある。持ち物がこまごま書いてあり、「万一にそなえての用意に、ガーゼとワセリン、脱脂綿、それに匂いのいいやわらかい懐紙」と続く。「枕カバー」も二つ、新婦のかばんに入れておくべきらしい。
8年ほど前、何度目かの島根に取材へ行った。調べる史跡に隣接する民宿に宿を求めたのだが、宿泊客は私だけだった。その日に限らず、しばらくは誰も泊まった気配はない。夕飯はうまかった。白身の刺身が出て、醤油がどろりと甘く、ああ、島根だなといつものように思う。ただし味噌汁はしじみではなかった。食事を終え、嫁いできたらしい嫁に「大風呂は今日は沸かさないです。小さい方でお願いします」と言われる。私は部屋に戻り、置かれていたタオルを持って風呂へと向かった。
風呂は家族風呂だった。泊まり客の家族が貸し切りで入るという意味ではなく、民宿の家族の風呂という意味である。服を脱いでまず戸惑った。脱衣かごはあったがそこにはすでに誰かの衣服が入っていた。すでに風呂を終え、そのままパジャマに着替えたのだろう。服は明日の朝洗濯するのだろう。私は洗濯してもらうわけではないので、畳んで籠のヘリに置いてみた。風呂場に入る。体は洗えたのだが、髪を洗うのにまた困った。どのシャンプーを使っていいかわからない。子供用(戦隊もの)、お父さん用(トニックシャンプー)、お母さん用。では宿泊客用はどれなのか?結局お父さん(たぶん)のを使ってみたが、それで良かったのかは自信がなかった。ヒゲ剃りもあったがそれを使う勇気もなかった。湯船に入り、ドラえもん水鉄砲でちょっと遊んだあと、早々に風呂を出た。バスタオルはたくさん棚にあっても同様に使えなかった。体を洗ったタオルを絞って、それで拭いた。
部屋に戻り、テレビをつけた。関東では見られないお笑い番組を捜したがなかった。テレビはそのままで、もうよれよれのハーンの『怪談』(新潮文庫)を開いた。寝転がって読もうと蒲団を敷く。最後に枕を置くと、カバーに髪の毛が何本もついていた。異様に長い女の黒髪なら怪談を感じるが、そうではない。不潔を思った。しばらくしてまた別の気持ちがよぎった。この髪の毛は誰のシャンプーで洗ったのか?