谷川俊太郎

漫画家志望は『魔法使いサリー』を見るべきか?
アニメの(昔の方の)サリーちゃんの最終回。学校が火事になる。サリーが魔法を使えば火事を消すことはできる。だけどそうすれば自分が魔法使いとばれて、大好きな友達よっちゃんやすみれちゃんとお別れしなくちゃいけない。さあ、サリーどうする?これには時間の縛りもある。早く決断しないと全焼だから!焼け野原になって葛藤自体が灰塵だから!
この構造は鞍馬天狗にもあった。目の悪い少女が手術をする。手術は成功。「ただし包帯をはずしてはだめだよ、はずしたら最後、もう二度と目は見えないよ」と医者は言う。少女は恩人の鞍馬天狗にお礼を言いに行く。だがそこには敵に捕まり、縛られた鞍馬天狗が。敵は爆発物をセットすると、導火線に火をつけ、その場を去って行った。物陰で話を聞いていた少女、包帯をはずせば導火線の赤い火ぐらいは見つけることが出来る。だがはずしたらもう二度と目は見えなくなる。どうする少女?早く決断しないと爆発だから!天狗のおじさんがバラバラだから!
物語は主人公に葛藤を与えるのだから、こういう構造は珍しいものじゃない。人のためにがんばる姿は読み手の心を打つわけで、それが同時に自己犠牲を含んでいればなおさらだ。子供のために命を捨てる親の話が典型だけど、たとえ観客の膝の上にドーキンスの『利己的な遺伝子』があったとしても、顔にある両の目からは涙が流れるだろう。
もちろんこの構造をひねることもできる。サリーちゃんは魔法を使わないし、少女も包帯を外さない。彼女たちはその間違った決断をトラウマにしてその後の人生を生きるのだ。それを書きたいという漫画家志望の人もいるかもしれない。がんばれ!応援はしないけど!
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30年以上前に読んで、まったくの記憶違いかもしれないが、谷川俊太郎が「友達とは」と聞かれてこんなふうに答えていた。「崖から落ちそうになった友人の手を間一髪つかんだけれども、しかし結局は力尽きて、その友人は谷底へ。だけどそれを許してくれるのが友達」
うーん。本当に谷川俊太郎がこんなことを言ってるのか?途中で視点が変わるレトリックも、言いたいことも谷川ぽいけど、自信ない。ネットで調べても全然出てこないし。私の記憶のねつ造ですかね?でもね、絵本『ともだち』(絵、和田誠 2002 玉川大学出版)は次の一文で始まるんですよ。
「ともだちって かぜがうつっても へいきだって いってくれるひと」
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