高橋睦郎

「バス停に立つとバスが来る方向を見るけど、あれは禁止」と日本政府が発表。明日からは青空を見て待つことに。
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高橋睦郎『花遊び』(小沢書店 1984)を読んでたら、こんなくだりが出てきて、にやりとする。それは「道」について。高橋の友人の作曲家がギリシア語の道は「行き道であって帰り道ではない」と言う。たしかにそうかもしれないと受けて、高橋は道について考えをめぐらす。ギリシア悲劇から旅まで。
たしかに「行き道しかない」ってドラマチックでかっこいいですね。だけど私がニヤけたのは先日も書いた霊長類学の山極寿一を読んだばかりだったからだ。
学者も私たちもかっこいいのが好きだ。二足歩行の手は武器を持つため、二足歩行の足は獲物を追い詰めるため。だけど山極の本を読めば、最新の視点が別の意味を教えてくれる。二足歩行の手は、大型の哺乳類が食べ残した骨を持つため、足は、家で待つ女や子供のところへとぼとぼ帰るため。はい。そうです。つまり「道は帰り道しかない」のです。
少年漫画家を目指しているみなさん、もちろん少年漫画はドラマチックでかっこいいのがいいわけです。ハイエナのようにせこく骨をかすめとって、さささと逃げ出し、家で待ってる女とセックス出来ることを想像しながら、「夕日がきれいだなあ」と帰るのは、あまりにもカッコ悪い。だけどね、この状況で背中から襲われたらそれはもう喜劇的にドラマチックだし、ていうかそういう喜劇的なことばかりで何十万年もやってきたから、だからこその反動でギリシア悲劇と少年漫画が生まれたとも言えるわけで、だったら我々の先祖のようにニッチ狙いで、こちらをつつくことも勝算ありでは?
「家に着くまでが遠足」。これはまさにこのことを言ってたんですね。