『アーミッシュの赦し』(亜紀書房)

ドナルド・B・クレイビルほか『アーミッシュの赦し』(亜紀書房 2008)読了。
2006年、アーミッシュの学校で乱射事件が起きた。子供たち5人が死亡。だがコミュニティはすぐに犯人を赦すと発表した……。
書いたのがアーミッシュを研究する学者たちで、さらに翻訳だから、読みにくいんじゃないかと心配してたが、違った。平易でわかりやすく、立ち位置がしっかりしている。良本だと思う。
×  ×  ×
以下考えたことをつらつらと。
「赦す」は行為なのか?思いなのか?宗教の根幹、「祈り」もまた「思う」ことだと言い換えるなら、そこから考えを発展させることが出来るかもしれない。たとえば大事な人を殺されて犯人を赦せないと思ったとする。その気持ちは復讐へと向かうだろう。法律も国家も関係ない。他人に任せることなく、自分で裁く。だがそういう行動に出る人間ばかりではない。むしろ大多数の人間は法に任せるのではないか。警察が逮捕し、裁判にかけられ、望んだとおりの極刑に処せられればいいが、そうではない場合どうなるのか?法に頼った私が愚かだった、今から復讐に出かけようと武器を用意するのだろうか?
アーミッシュは赦した。今回、銃を乱射した男は死亡したために、犯人に法的な裁きはなかった。だがもし男が生きていて、法が彼を裁くことになったら、アーミッシュはどうしたのだろう。「彼を裁かないで下さい」と嘆願書を出したのだろうか。いや彼らがそうはしないことは過去の他の事件などでわかっている。彼らはいつでも警察や司法に協力的だった……。ここをどうとらえるか?と書くとアーミッシュを卑小化してるように思われるかもしれないが、逆だ。むしろラジカルだということ。「私たちはすでに赦すと思ったのです。ですから警察の方たちはあとはどうぞご勝手に」。文字通りこれは根源的な方の意味のラジカルとなる。つまり、思うことは行為より大事だ、ということか。神は私の心のなかにいるのだから、思うだけで神には通じるのだから。
もし2006年の事件を映画化するとしたら、どこからアプローチしたらいいか。ドラマは葛藤があり行為がある。となるとアーミッシュを外部にして、思い悩み行動する別の人間を主人公に立てるべきなのか。それでは安易か?だがこの本にあるように、この事件がこれだけ騒がれた理由はアーミッシュ側にあるのではなく、我々側にあったわけだ。動揺したのは我々なのだ。だがそれも当り前だ。我々は思うだけですますことはできない。かと言ってすんなり行動へと繋げることもできない。さらに行動を起こしたとしても、当然のことながら他者がかかわり、思いとは別の動きが生じてしまう。
ああ、そうか。他者がいないとも言えるのか。

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