荒井裕樹『生きていく絵』

ゴッホのひまわりがある。
展覧会に来た客がゴッホに言う。「これは情熱を表してるんですね」ゴッホは即座に飛びかかり、馬乗りになってぶん殴るだろう。剃刀があればそいつの耳を削ぐかもしれない。そしてその耳を手に「ひまわりだよ!ひまわりを描いたんだよ!」と叫ぶだろう。
ひまわりの情熱は描けるが、情熱を描くことはできない。なぜなら言葉に必ず裏があるようには、絵はなにかを隠すことはできないから。
では客は何と言えば耳を削がれずゴッホに握手を求められたのか?「ゴッホさん。このひまわり僕は好きだなあ。大好きだなあ」
こう言えば「ちょっと飲みに行きますか、外寒いですか」とゴッホはコートを手にするだろう。なぜか。ゴッホもこのひまわりが超大好き!なのだから。
実作者ならわかると思うが、ここで絵筆を置こうと思うのは「この絵が好きだ」と確信できたところでだ。たまたまもうひと筆足してしまい、「あ、だめだ、好きじゃない」となるのはよくあることだ。この好きじゃないはもちろん「このひまわりは好きじゃない。この絵は好きじゃない。この絵をいいという奴を好きじゃない」とつながる。
つまりそこには「ひまわり」「絵画」「自分」がある。
ゴッホは飲み屋でビールを注ぎながら言うだろう。「あのひまわりはオレ大好きなんだけど、そういうオレってどうよ?けっこうよくない?」
×  ×  ×
『生きていく絵(アートが人を<癒す>とき)』(荒井裕樹 亜紀書房 2013)を読後、そんなことを考えました。

生きていく絵

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