吉田大八

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』は足の映画だった。
クヒオ大佐』は腕。
じゃあ『パーマネント野ばら』はなんだろう?パーマ屋だから髪?そう思って作品を見たら、答えは後ろ姿だった。なるほど人は髪を切ってもらうとき後ろを見せるしなあ。監督に言ったら「たしかにポスターもそうなってる」。
ではみなさん。『桐島、部活やめるってよ』はなんだと思いますか?「目だと思います」。たしかにポスターはそうヒントを出してますね。でも映画はいつでも視線を描くわけだから、そう簡単なことじゃないとも言える。だったらなによ?
『桐島……』は「見るのを見る」映画だった。ああ、ポスターもよくよく見ればそうじゃん。前田はただ見ているのではなくて、カメラのレンズ越しに見ている。これは前田が撮った映画を、つまり前田が見たものを、誰かが(いつか作品として)見ることを意味してる。
『桐島……』は青春映画なわけですよ。だから好きな人を遠くから見るシーンがたくさん出てくる。だけどそれらよりも、好きな人を見ている人を見るもう一人(ややこしい)や、好きな人が何かを見ているのに気づきその何かに思わず目をやる(吹奏楽部の亜矢が窓へ目をやるシーンは良かったなあ)、そういうシーンの方が実は大事に扱われている。当り前ですが、これって必ず遅れる行為だ。見た人がいてそのあと見るわけだから遅れるって意味ですね。あるいはこうも言える。見るのは一度目ではなくて、二度目なんだと。つまり一度目にその風景を見るのは別の人で、私が見る風景はいつも二度目だってことだ。いや難しい話しじゃないです。ようはそっちのほうが切ないってことです。一度目は悲劇、二度目は喜劇だしね。「逆だろう」。うん?合ってるんじゃないの?だって切ないのは喜劇でしょう。
だから最初の繰り返される金曜日の仕掛け?あれもこの切り口で解いてもいいんじゃないのか。大事なのは二度目、三度目だってこと。で、当然それは最後の台詞に繋がる。「映画を撮ることは昔の監督たちと繋がってる」(※ごめん、台詞ちょっと曖昧)これはまさにそうだし、あるいは「俺たちはこの世界で生きて行かなければならないのだから」ってのもそうなる。だってこれもまた「俺たちがこの世界を見つけたわけではない。選んだわけではない。遅れてきたのだ、俺たちは」ってことだから。
伊集院光が「あ行の青木君は勇気がある男に育つんではないか。だっていつも予防接種は一番最初に受けるんだよ!」という素晴らしい指摘をしてたけど(今は予防接種は学校でしないらしいけどね)そうなのだ、青木君の勇気を描くのが普通の青春映画とすれば、『桐島……』はちょっと違う、今やまさにチクリと刺さる注射器を見ている青木君の、その視線を通してもっと顔が引きつる石井君(出席番号2番)の映画なのではないか。
でもまあ吉田監督は一貫して青木君を撮ってはこなかったよね。ふふふ。吉田って名前、ヤ行だし。とは言っても『桐島……』とその前の三作品では大きく違うところがある。たしかに監督は青木君の勇気は撮らなかった。撮ったのは、勇気とか全然関係ない「普通じゃない」青木くんだった。つまり平気で注射を打てちゃう人。注射が怖いとか怖くないとか、そういうののラチガイにいる人。ではあの人たちは『桐島……』ではどこにいるのか。まさか桐島?いやいや、あり得ないわけじゃない。だって、それは……。うーん。まあこの切り口でもいろいろ書けるんじゃね?
しかしこの監督の作品履歴からもわかるとおり、勇気ある一番って面白いのかよってことですけどね。前提を崩すようで申し訳ないんだけど、たしかに注射では青木君は一番だが、身長がクラスでまん中の青木君は、跳び箱を最初に跳ぶわけじゃない。だから突き詰めれば一番ってそれほどすごいかってことになる。もしすごいとすれば、最初にナマコを食った人でしょう。でもそれは勇気のある人じゃない。ラチガイの人だ。
「また煙に巻こうとしてる!」今、吉田監督の声が聞こえました。言われたんだよね。昔、打ち合わせで。監督は非難したんだろうけど、ありがとうございました、誉め言葉として受け取りました。たしかにこの一連の文章、自分の文体じゃないけどね。あ、文庫の『桐島……』の監督の解説、あの文体も意外だったけど。「あれ、どっから来たの?」と聞いたら教えてくれたけど。あ、あ、そうだ。この前「最近、ゴルゴ13書いてる」って言ったら監督に爆笑された。これもありがとう、うれしかったです。
戻ります。煙を払います。
上で「もっと顔が引きつる出席番号2番の石井君」と書いた。実はこれ、「顔」を導き出すための比喩だった。そう、なぜ映画を見るのか。それは顔が見たいからに決まってるじゃん!
これは私と監督の共通する理解です。もうそれだけのために映画を作ってると言っても過言ではない。スクリーンのなかの怒った顔、笑う顔、泣く顔。もちろんそういうわかりやすいのもいいけど、笑っているとは思えない顔、泣いてないのに泣いている顔。なにを考えてるのかわからない顔。そういうのが見たくて映画館に行くんですよね(「映画見ないじゃん」ってまた監督の声が)。今回もまた吉田大八監督は良い顔を揃えた。顔だけ見ればその人のすべてがわかる(いや、逆だ、まったくわからない)、そういう顔を集めてきてますね。きっと全国を走り回って、「あれ、キープ、あれもキープ」と助監督に指示を出し、どんどんトラックの荷台に乗せたんだろうなあ。そうやって武ちゃんや野球部キャプテンを連れてきた。
もちろんそれがあるから、「足」だ、「腕」だ、「後ろ姿」だと言ってるんですよ。当り前じゃん。顔があっての顔以外、手とか足とか腕とか尻とかだから。ちなみに監督の作品で役者が賞をもらうことが多いのはこのせいだ。(まあ本人ももらってるけど)そんでまた監督が群像劇が好きなのも顔をたくさん集めたいからだ。
「役者良かったね」「良かったでしょう」そう聞いて答えられるのは監督の自負だ。それがあるから、トラックで連れてこられたいい顔連中に負けないように、そうでないハンデ組(マネージャーの車で来た人たち)もがんばったんでしょうね。本当にいっぱいいい顔があった。屋上のとこだけ書いてみよう。バトミントン部のかすみが沙奈を平手打ちする。つまり見ていた人を見ていて人が見ていた人のために思わず行動してしまう。いいよね。これこそ映画って感じがする。だって注射に立ち向かう勇気じゃないもの。思わず手が出ちゃったんだから。普通の人がラチガイの行動をする。そういうことだ。だからこのときのかすみの顔がすばらしい。そしてそれを受けての実果の顔!
そして前田と宏樹。すばらしかった。前田良し!(これ言っとかないと)。もちろん宏樹もね。あのとき前田は宏樹を見たんじゃない。前田は宏樹を見たんじゃなくて「きみは今なにを見てるの?」って宏樹の見てるものを見ようとした。だから宏樹はどこかを見れば良かった。バットとか。女とか。カレーが好きならカレーとか。武ちゃんだったら満島ひかりだね。だが宏樹は見れなかった。見るものがなかった。では何を見たか。夕景。それは前田の台詞にもあるけど映研にとって大事なもの。宏樹の方は前田が見るものを見たわけだ。だからこそのあの顔だった……。繋がった。なんていう理屈はどうでもいい!そんなのは煙に巻かれろ!そういうのを超えるからこそ、顔じゃないのか!!(でも考えて見ればすごい。青春映画で夕景使って、でもそれは「見てはいない、見たくない」夕景だったって。あれも助監督に指示を出しキープしたんですね)
(この稿、また書く予定)
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