下村槐太

倉阪鬼一郎の『怖い俳句』。
安部青蛙も良かったが、下村槐太も良かった。
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葱を切るうしろに廊下つづきけり
死にたれば人来て大根煮きはじむ
蛇の衣水美しく流れよと
わが死後に無花果を食ふ男ゐて
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向田邦子は仕事に行き詰ると蕪村を読んだらしい。これってひどく実戦的なことではないか?蕪村のようなものを書きたいと戒めで読むのではなく、蕪村の一句のその風景をシーンナンバー1に置いたらそのあとどんな展開があるか、あるいはその風景が登場人物の心象だとしたら、その妻(夫)の心には何が浮かんでくるのか、そういう心持ちで読んだのではないか?それも理詰めではなく、読んだ途端こちらの感覚が負けじとひくひく動き出すというように……。
上に挙げた下村槐太の句(全部『怖い俳句』に出ている)も向田、いや私にとって、「動き出す」句ばかりだ。
たとえば「わが死後に無花果を食ふ男ゐて」。
中年の男。その妻。妻は無花果が好きだ。大きな口をあけてしゃぶしゃぶしゃぶとうまそうに食う。自分は食わない。それほど好きではない。だがその姿を見ていると妻を抱きたくなる。乱暴に抱きたくなる。そしてそれは妻もわかっている。わかっていて、いやわかっているから見せつけるように食う。だが実はこのごろ男の影も見えるのだ。男の影があるからこそ、律儀に見せつけるように無花果を食い、妻としての義務を果たしてるのかもしれない。「俺が死んだあと、お前はその男と無花果を食うんだろう」そして今日も電気もつけずに夕暮れの暗い部屋で妻はしゃぶしゃぶ無花果を食う……。
無花果の葉をつけたアダムとイブの画集を出してもいい。わざとらしく使うのだ。あるいは性交時に男が遊びで妻の陰部に葉を置いてみるか。だとすると妻ではなくて愛人がいいか。花をつけずに果実が実る無花果だから花に意味を持たせるか。男は胃癌なのかもしれない。だからもう食う喜びはない。いや、もしかしたらそれは誤診で、誤診だからこそ、また別の悲しみが生まれるのかもしれない。
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安部青蛙
半円をかきおそろしくなりぬ
おそろしき般若のめんのうらを見る
十本の指を俄かにならべてみる
くさめして我はふたりに分かれけり
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みな面白い。だがここからドラマを作ろうとは思わない。いや、こちらの問題ではなく、青蛙は他者をひとつも寄せつけないから。